職人 宮本留吉と “Tom Miyamoto” ブランド
日本ゴルフ界を支えたプロ 宮本留吉
今から104年前。日本最初のゴルフ場である神戸ゴルフ倶楽部が造成中のときだった。宮本留吉は、隣接する兵庫県武庫郡六甲村(現在の神戸市灘区)で1902年(明治35年)に生まれた。宮本が、キャディとして神戸ゴルフクラブで働くようになったのは小学校5年のときであり、その頃からゴルフに憑かれたと思われる。木の枝で造った自前のクラブで打っては遊んでいたという。本格的に宮本がクラブ造りに着手したのは、プロになった当時、23歳の頃だった。『ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録』から引用したい。
《初めは自分が使うために造った。プレーやレッスンが終わったあと、ヘッドを外して削っては翌日打ってみて、また形を修正するというようなやり方だ。その頃のウッドにはインサートがなく、木を削っただけの表面である。フェースには金ノコを入れて、小さなマス目の溝をつける。しかし何百回とボールを打つうちに、塗料がはげ、マス目の端が欠けたり、ささくれが出来て、ボールの飛び方が違ってくる。また削って全体の形を整える。そんなことを繰り返しているうちに、どんな形のヘッドが正確に遠くにボールを飛ばすかということが分かってきた。(中略)
輸入されたウッドの材料はいちおうヘッドの形になっている。それをさらに削って、シャフトを入れる穴をドリルであける。パーシモンには硬い木目があるので、うまくドリルを使わないと、パットのボールが芝目の影響で曲がっていくのと同様に、次第にドリルの方向が曲がって、フックフェースとかスライスフェースになってしまう。ヘッドの底にはアルミや真鍮の金属板をはめ込むが、今のように機械が使えないから大変だ。まず底板をヘッドの底に当てて鉛筆であとをつけ、ノミやヤスリで削っていく。このやり方で、ぴたりと底板が寸分の隙間もなく収まるようになれば一人前だ。
そのころのプロにとって道具の修理も仕事の一つだから、自分の造った道具でトーナメントに出た人もいたが、私はトーナメントに出ただけでなく、それで大きなタイトルをいくつも取ったのが自慢である。》
宮本留吉は、プロとしてその名を歴史に刻み込んだ。しかし、そればかりではない。忘れてならないのは、いち早くクラブ造りに着目したことだ。戦前の輸入品のクラブしかなかった昭和初期、キャディ時代に甲南ゴルフ倶楽部所属の先輩プロだった福井覚治の家に住み込み、クラブ修理技術を会得。自前のクラブを駆使し、試合に臨んでいたことでも知られている。昭和4年頃だったという。アイアンのシャフトがヒッコリーだった時代、輸入品の壊れたドライバーのスチールシャフトを3番アイアンに取り付け、仲間のプロたちをあ然とさせている。
またほとんど知られていないが、ミズノのクラブ造りの礎を築いたのが宮本である。昭和8年、美津濃(現・ミズノ)の創始者・水野利八は日本初の国産クラブ造りに着手し、その際にスーパーバイザーとして宮本を招聘。宮本の命で弟子であった茨木カンツリー倶楽部のクラブ職人の山本丈助が美津濃のゴルフ工場の指導に当たることになった。いわば宮本留吉は、プロとして本格的にクラブ造りを始めた先駆者といってよい。
終戦から7年後。50歳を迎える1952年(昭和27年)の春。住みなれた関西を後にして上京、三鷹市に居を構えた宮本留吉は、旧知の仲であり、東京大学ゴルフ部出身のパトロンでもある汽船会社を営む原田盛治との共同経営で、銀座にゴルフ用品販売店兼室内練習場の“フェアウェー”を開店。同時に自宅に“日本ゴルフ商会”と称した工房を設立し、オリジナルのクラブ造りに取り組んだ。このことも他のプロを驚かせた。いちプロが用品販売店や室内練習場、さらにクラブ造りの工房を持つというのは史上初めてだったからだ。
宮本は、時間を惜しみなくかけ、まさに子どもを育てるように工芸品ともいえるクラブ造りをしていた。1957年(昭和32年)の年が明けた。日本ゴルフ商会が設立されてから6年目だった。この年は、日本ゴルフ界にとっては忘れられない年となった。霞ヶ関カンツリークラブで開催された「カナダカップ」、現在の「ワールドカップ」で中村寅吉と小野光一の日本代表チームが団体戦を制する一方、個人戦でも中村寅吉が、地の利を生かして優勝。初めてテレビ中継されたこともあり、一気にゴルフブームがやってきたのだ。
当然、このブームによって日本ゴルフ商会が造るクラブが注目された。なんといっても日本オープン6回制覇の宮本留吉が、丹精込めて造るクラブだ。誰もが“トム・ミヤモト”を手にゴルフをしてみたかった。しかし、宮本は、けっして顧客の注文に口先だけで応じる商売人ではなかった。「すぐに欲しい? なんぼ頑張っても造るクラブは限られているんや。待てなかったら他社のクラブを買えばいいやないか……」宮本は、相手の客が顔なじみの一流会社の重役だろうが関係なく、そういって追い返す始末だった。当時の“トム・ミヤモト”のウッドは1本約1万円と他社の価格よりも倍近く高かったが、連日のように注文が殺到した。しかし、どんなに徹夜作業で踏ん張っても5人ほどの職人だけでは量産できず、1年待ちは当たり前。アイアンセットは月に20セット以上売ることもできたが、手間がかかるウッドの場合は、月に100本前後しか造れなかったという。いや、たとえそれ以上造れても宮本が納得しないクラブであれば不良品扱いにし、市場に出さなかった……。
宮本留吉は終始職人としての誇りを持ち、意地を貫いたのだ。たとえば、宮本は、クラブの注文を受けると必ず注文した客のスウィングなどを自分の目で見ることにしていた。銀座のゴルフ用品店兼練習場の“フェアウェー”で客を相手にしている宮本は、自らボールをティアップし、客を打席に立たせてスウィングさせる。「ちょっとスウィングしてみるんや……」「バックスウィングはどないなってる……」「アドレスや。早く構えてみい……」その口ぶりはけっして大事な客を相手にするものではなかった。一方、客にしても目の前にいる男が、偉大なゴルファーであるため素直に従っていたようだ。しかし、もちろん、口の悪い宮本だったが、鋭い目でその客の身長や体重、どの程度の技術の持ち主なのかを隈なくチェック。客の体型や技術などを見極めてシャフトの長さやグリップを決めていたのだ。
その後宮本は、1964年(昭和39年)に工房を保谷(現在の西東京市)に移し、それから78歳になる昭和55年までクラブ造りに専念した。宮本は、レッスンをしながら自宅でクラブ造りをやっていた。最後までゴルフとともに人生を歩むこととなった。
“Tom Miyamoto” ブランドクラブの数々
右上写真は関西時代に削ったアイアン。左上写真のアイアンは下のクラブほど新しくなる。時代が下るに連れて、ヘッド形状もネックデザインも、現代のクラブに近づいていく。両目に鋭い光を宿し、最後の仕上げである“トム・ミヤモト”の刻印をクラブヘッドに入れるときの宮本の姿には迫力があったという。
一番左は宮本が東京に移転した直後、中央が昭和35年前後の三鷹時代のそれぞれウッドクラブ。一番右が昭和39年の保谷移転後のドライバー。刻印のデザインが違うだけでなく、ヘッド自体が大きくなり、左に膨らんでいるのが分かる。フェアウェイウッドのフェース面は、厚く作ってあるドライバーと反対に薄くなっていた。宮本は厚いドライバーと薄いフェアウェイウッドという現代クラブの最先端理論を、体験的に導き出していた。
宮本留吉 年譜
1902年 兵庫県に生まれる。生家の近くには日本最初のゴルフコース「神戸ゴルフクラブ」があり、
ゴルフとの出会いは宿命的だった。
1912年 小学校5年から、神戸ゴルフ倶楽部の臨時キャディとして働く。
1914年 小学校卒業と同時に家業を手伝う。
1924年 ヨシエ夫人と結婚
1925年 茨木カンツリーキャディマスター兼プロに(23歳)。福井覚治、越道政吉についで日本で3
番目のプロ選手となった。
1926年 第1回全日本プロ選手権に優勝。
1929年 第3回日本オープンに優勝。同年、安田幸吉選手とともにハワイ・オープンに出場。日本
選手として初の海外遠征。
1930年 ウォルター・ヘーゲン来日。そのスイングに大きな影響を受けた。
1932~32年 米国、英国へ遠征。ジーン・サラゼンら名選手とプレー。
1932年3月 パインハーストでのエキシビジョンマッチで球聖ボビー・ジョーンズを破る。
1932年5月 英国にて皇太子プリンス・オブ・ウェールズ殿下とプレー。
1932年6月 全英オープン出場
1935年 米国遠征。日本オープン優勝。
1936年 日本オープン優勝。日本プロ優勝。
1938年 フィリピン・オープン出場。
1940年 日本プロ優勝。
1952年 東京へ移住。本格的にクラブ製造に着手。ゴルフ用品販売店兼室内練習場の“フェアウェ
ー”を開店。日本ゴルフ商会の設立。
1964年 工房を保谷に移転。
1985年12月 永眠。(83歳)
日本オープン選手権 優勝6回 日本プロ選手権 優勝4回
関西オープン選手権 優勝4回 関西プロ選手権 優勝4回
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